明治時代半ば、西洋人により避暑地の扉が開かれた軽井沢。
外国人が快適な避暑生活をおくるために建てられた軽井沢建築には、ウィリアム・メレル・ヴォーリズとアントニン・レーモンドというふたりの巨匠の力が大きく影響しました。
W.M.ヴォーリズ
1905(明治38)年、米国から琵琶湖のほとり・近江八幡に英語教師として赴任したヴォーリズは、その年の夏休みに軽井沢を訪れました。緑あふれる軽井沢をすぐさま気に入った彼は、2年ほどで教師を辞め、独学に近い形で「ヴォーリズ建築事務所」を開設。その後拠点を軽井沢に移し、ユニオンチャーチ、睡鳩荘(旧朝吹山荘)、軽井沢会テニスコートのクラブハウス、軽井沢集会場、マンロー病院など、避暑地の生活向上のために結成された「軽井沢の避暑団」関連の建物を次々と手掛けました。自己主張や華々しさは少しもなく、気候風土に即し、依頼主の気持ちにやさしく寄り添う温かみのある空間が人々を虜にしました。




A.レーモンド
レーモンドが米国の建築家フランク・ロイド・ライトとともに日本を訪れたのは1919(大正8)年。帝国ホテルを手掛ける師匠のライトが日本を離れるも、日本建築への憧憬からレーモンドは日本に残る決心をしました。1933(昭和8)年には、自身の建築の中で特に思い入れのあるアトリエ「夏の家」を軽井沢に設け、スタジオワークを展開。谷状の屋根や2階へのスロープの斬新さなど、木造モダニズム建築の伝説的な存在になっています。翌年には「軽井沢聖パウロカトリック教会」を設計。できる限り地元の材料を使い、彼が貫いた自然への信頼が大いに感じられる建物は、今も多くの人に愛され続けています。



ヴォーリズとレーモンドに共通する「自然に対する深い想いとシンプルな美しさ」は、その後の軽井沢別荘文化に大きな影響を与えました。